本文へスキップ

例会発表要旨

2012年度以降の例会発表要旨です。発表者別(五十音順)に掲載しています。2012年度以前の例会発表要旨につきましては、会報をご覧ください

会員、準会員、学生会員による発表



玉川裕子(会員)
 学習院と音楽 (2016年5月28日発表)

本発表では、1877[明治10]年に華族の学校として誕生した学習院における音楽教育を扱った。対象としたのは、創立時から昭和初期までである。

Ⅰ.唱歌教育事始――明治10年代の学習院における音楽教育
 学習院では創設間もない1879[明治12]年秋より音楽教育が実施されたと推測される。これはまさに、初・中等教育において音楽教科を実施するために音楽取調掛が設置された時期と重なる。教材もなく、教員もいない時代、学習院で唱歌を教えていたのは、宮内省式部寮雅楽部の伶人たちだった。彼らは、よく知られているとおり、1874[明治7]年より西洋音楽の習得に取り組んでいた。そのため、1877[明治10]年に東京女子師範学校附属幼稚園において保育に唱歌を取り入れる試みが着手されたとき、彼らもこのプロジェクトに関わることになった。最初期の学習院の音楽教育は、伶人をはじめとする保育唱歌プロジェクトの関係者によって担われたのである。 
 しかし2年後の秋、同校の音楽教育の担い手は音楽取調掛の手に移る。同時期、この文部省直轄の音楽教育研究機関では≪小学唱歌集初篇≫の編集が最終局面に入っていた。新しい教材で音楽を学んだ学習院の小学生たちは、翌年1月末に開かれた音楽取調掛の成果報告演奏会で、東京女子師範学校附属小学校の生徒たちとともに舞台に立ち、≪小学唱歌集初篇≫から何曲かを披露した。以後、学習院の音楽教員は専任、非常勤を問わず、そのほとんどが音楽取調掛および東京音楽学校で学んだ人材が占めることになる。

Ⅱ.学習院における音楽教育の展開――ジェンダー比較の視点から 
 学習院の初等および中等教育のカリキュラムを通覧すると、男女で大きく異なることがすぐに見てとれる。これは当時の教育政策に沿ったもので、驚くにあたらない。本発表では、とくに中等教育における音楽関係の科目の扱いに注目する。
 中等教育において、男子は創設から明治半ば頃まで、そもそも音楽関係の授業が行われていなかった。明治30年代半ばに入ってようやく、文部省の定めるところに従い、男子にも1年次(時期によっては2年次も)に「唱歌」が課されるようになる。対照的に、女子には当初より中等教育の全学年にわたって音楽教育が実施されていた。授業時間数のみならず、内容面にも違いが見られる。男子の科目名は「唱歌」とされていたのに対して、女子のカリキュラムでは「音楽」と称され、唱歌にとどまらず、ピアノや筝が教えられ、時には鑑賞教育や一歩踏み込んだ楽曲解説等もなされていた。
 もちろん、女子中等教育における音楽教育の重視は、学習院にとどまらない。世紀の変わり目頃より、国家の最小単位としての家庭の安寧秩序を維持する役割が女性に期待され、良妻賢母育成という観点から女子教育の重要性が認識されて高等女学校をめぐる各種法令が整えられ、各地で女学校が設立されていく。こうしたなか、中学校に比べて高等女学校で格段に音楽の授業が普及していった事実については、ジェンダー視点から戦前の中等教育における音楽教育を分析した土田陽子の研究が示す通りである(下記参考文献参照)。「未来の主婦・母」に音楽教育を施せば、彼女たちが将来「音楽による一家団欒の演出者」となり、家庭にパラダイスを現出させることができるだろう、子どもたちによりよい情操教育を与えることもできるだろう、というわけだ(土田、190頁)。
 そうはいっても、学習院女子の音楽教育の充実ぶりは際立っている。指導者は常時複数名が在職し、音楽室のほかに筝教室、もしくはピアノ教室が備えられる等、設備面も手厚く整えられ、「学習院女子部のように八つも九つもピアノがある学校は別にして」と、他の高等女学校に羨ましがられるほどだった(土田、175‐176頁)。
 このような学習院女子における音楽教育の充実ぶりは、華族の学校であったこと、とりわけ皇室と縁が深かったという同校の特殊性と、やはり無関係ではなかったと推測されるが、この点については今後さらに検討を重ねていきたい。

【主な参考文献】
『学習院年報』(学習院アーカイブズ所蔵)
『女子学習院五十年史』、女子学習院、1935年。
『学習院百年史』、学習院百年史編纂委員会、1981年。
『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第1巻』、音楽之友社、1987年
塚原康子『十九世紀の日本における西洋音楽の受容』、多賀出版、1993年
塚原康子『明治国家と雅楽――伝統の近代化/国楽の創成』、有志舎、2009年
土田陽子「中学校と高等女学校における音楽教育とジェンダー――音楽教育の位置づけと意義の変容過程」、『男女別学の時代――戦前期中等教育のジェンダー比較』小山静子編、柏書房、2015年。

付記〕
本テーマについては、例会での発表後、論文としてまとめる機会を得た(「学習院と音楽――明治・大正期の音楽教育をめぐる資料解釈の試み――」、『桐朋学園大学研究紀要』第42集[2016年]所収)。以下を参照。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110010059588


西阪 多恵子(会員)

 W.W.コベット―近代イギリス音楽界のアマチュアとジェンダー(2016年7月23日発表)

本発表では、前半で2015年度お茶の水女子大学博士学位論文「W.W.コベットの研究―アマチュアの観点から」の概要を紹介し、後半で、男性のアマチュア音楽家W.W.コベット(1847-1937)とその周辺にみられる音楽のアマチュアとジェンダーの関係について論じた。以下は後半の要旨であり、2013年2月の例会発表(要旨既出)のいわば続編である。(博士論文の要旨はお茶の水女子大学附属図書館「教育・研究成果コレクションTeaPot」http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/に掲載)

 アマチュアと女性及び女性性との結びつきをめぐる興味深い事象の一つは、ジェントルマンのアマチュアリズムに関する言説である。ごく大雑把にいえば、「ジェントルマン」は、18世紀においては貴族や大地主の身分を示唆する言葉であった。男性性を標榜する新興ブルジョワら中流階級はそうした不労有閑の人々を“女々しい”とみなし、その傾向は19世紀にも続いた。プロとしての社会的認知を求める中流階級の男性音楽家は、そうした有閑層を含意するアマチュアに音楽の女性性を転嫁し、音楽家の男性性を主張した。ところが一方で、ジェントルマンの概念は階級を越えて拡大し、多様な意味合いを持つようになった。19世紀が進むにつれ、ジェントルマンらしさは、教養あるアマチュアリズムと共に、ブルジョワらが信奉する近代的男性性によって示されるようになる。職業を営まずとくに金銭的な事柄に関わらないというジェントルマン本来のあり方は、理念として世に継承されながらも、階級的対立が薄れ、上昇志向が広く浸透する中で、財界人らもジェントルマン化していった。元実業家のコベットも国勢調査の職業欄に「ジェントルマン」と記している。そして彼らの間になお脈々と流れるアマチュアリズムは、音楽で収入を得るべからずという女性の規範にいくぶん重なる。背景の相違は大きくとも、そこにはアマチュアであれプロであれ女性音楽家と、アマチュア男性音楽家との間に共感を育む可能性が秘められているのではなかろうか。

 実際にコベットが女性音楽家と音楽を共にした場としては、女性音楽家協会関係(2013年2月発表要旨参照)の他、アマチュアのオーケストラやコベットの自宅での私的な弦楽四重奏団、有能な若いプロ演奏家を自宅に招いての室内楽共演などがある。裕福なアマチュアであればこそ享受しえた音楽的交流の機会も少なくない。アマチュア男性コベットと女性音楽家には、理念的現実的な共通性や接触があったといえよう。

 その半面、コベットのようなアマチュアや愛好家が男性だけの音楽の集いを楽しむ場も多かった。その典型が19世紀末にとくにアマチュア・オーケストラで流行った喫煙コンサートである。奏者には女性団員、定期演奏会の聴衆には女性会員もいるオーケストラでありながら、煙草をくゆらしてくつろぐ男性だけのためのコンサートが供されていたのである。また、男性限定のアマチュア組織には、オックスブリッジ両大学関係者を主とする音楽クラブやマドリガル・ソサエティなど、音楽のみならず男性同士の社交的な楽しみを重視する傾向があった。一方で男性限定のアマチュア組織に対応する女性組織は少なかったようだ。そもそも一般に、女性の集いといえば、まず慈善活動など他者のためであったのではないか。女性が中枢を担うアマチュア音楽組織が通常男性を排除しないことの背景には、男性中心社会におけるその利点といった実際面のみならず、そうした女性の倫理的規範が働いていたとも考えられよう。

 プロ男性中心の音楽界において、アマチュアとプロ、女性と男性をそれぞれ二項対立的にみるならば、アマチュアと女性は共に中心に対する周縁として共通する位置にあると考えられる。しかし、さまざまな対概念が錯綜する実態はこのようにはるかに複雑であった。

 アマチュアの男性コベットは、女性音楽家との音楽的交流と、男性だけの楽しみとの両面を享受しつつ、音楽における女性の活動やその重要性にたびたび言及した。彼は、近代産業社会の成功者として男性的な男性であり、アマチュアリズムを継承するジェントルマンであり、なおかつアマチュアとしてプロ音楽界に深く関わった。性別を問わずさまざまな人々との関係を拓き、性別領域分離と差別化が進む社会の一端をなす音楽界において、室内楽を核として女性と男性が共に音楽する場をつくりだしていった。コベットがそのように境界を越え拓いていったように、彼の活動したイギリス音楽界のアマチュアとジェンダーとの関係を今後さらに読み解いていくならば、当時の音楽界に対するより広い視野が拓かれるのではなかろうか。



西阪 多恵子(会員)
 女性音楽家協会とW.W.コベット-20世紀初頭イギリス音楽界におけるジェンダーとアマチュア(2012年2月発表)

 本発表は1911年に設立されたイギリスの女性音楽家協会(The Society of Women Musicians 以下SWM)と、その男性準会員であるアマチュア音楽家W.W.コベット(Cobbett, Walter Willson 1847-1937)との関わりをジェンダーとアマチュアの関係を中心に考察したものである。

 18世紀以来、音楽が中流上層階級の女性の嗜みとして性格づけられるようになる一方で、男性を中心とする音楽界はプロとしての社会的認知を獲得していった。意志強固、厳格といった近代ブルジョワの男性性はプロの資質と結びつき、女性性という音楽の古来のイメージは一段とアマチュアに付与されていく。アマチュアの男性は女性的、女性音楽家はアマチュア的とみられる傾向が生じ、教養豊かな音楽の庇護者で愛好家というかつてのアマチュア像は単にプロに劣る者へと変わろうとしていた。

アマチュアとプロをめぐるこうした状況を背景に、SWMはアマチュアもプロも擁しつつ、会員のプロ意識や専門知識を高め、音楽界での知名度を上げるべく努めた。SWMの主目的は女性音楽家の相互協力であり、アマチュアとプロとの明確な区別は(アマチュアの方が若干高めの会費以外には)なかった。会員は共に学び、演奏した。また準会員として男性の入会を歓迎した。準会員の1人であるコベットは現代イギリス室内楽の振興に努めたパトロンとして知られる。彼は音楽誌の編集や執筆、ヴァイオリニストとしてのプロとの共演など、プロの音楽界に深く関わりながらも、アマチュアの演奏を促進し、アマチュアとしての明確な自意識を常に前面に打ち出していた。

そのようなSWMとコベットは協力してSWMにおける「コベット・フリー・ライブラリー」と「コベット・チャレンジ・メダル」の企画を実践した。前者はコベットがSWMに寄贈したイギリス室内楽の楽譜百数十点による貸出ライブラリーであり、SWMの管理の下、アマチュアや学生など一般に公開された。後者は四重奏の演奏水準の向上を目的とするコベットの寄付金に基づく演奏コンテスト賞であり、当初はSWM会員対象であったが、後に対象はアマチュア一般に拡大された。SWMとコベットはこのようにアマチュアや一般音楽愛好家に広く利すべく協働した。

SWMの個々の会員もコベットと様々に関わりあった。なかでもコベット編集による雑誌『室内楽』上のマリオン・スコットとキャサリン・エッガー(共にSWMの創立メンバー)共著の連載記事「室内楽における女性」は、音楽クラブなど相対的に女性の活動が著しい領域を扱うことにより、アマチュアもプロも含む音楽の多様な営みに目を向けている。それは男性の著名作曲家作品に関心を集中するプロの音楽界の傾向とは対照的である。

コベットは女性組織SWMと深く関わり、SWMや女性音楽家たちの活動の重要性を力説した。だがアマチュアの女性性という通念、アマチュアとしての主張、加えて女性たちとの関わりにもかかわらず、彼は「女性的」ではなかった。むしろ社会的にも内面的にも「男性的」であった。社会的には、自らの働きによって経済力や社会的地位を得た実業家としての男性性であり、内面的には、現実の女性音楽家に対して示す共感にも拘らず、理想の女性の音楽について「男性の服を着るのではなく、自らの本質に忠実な、詩人たちにうたわれた女性」の音楽と述べていることに象徴されよう。女性と男性の音楽は互いに異質であるという考えは、スコットらSWMの中心メンバーの言葉にもみられる。だが、コベットはそのジェンダーにおいて彼女たちと正反対の立場にあった。彼は男性の視点から女性を対象化するという一つの典型的な女性観に与してもいたのだ。

しかしながら、コベットは社会的に勝ち得、内面から支えられた男性性によって、アマチュアとしての主張を広く発信する力を得、女性組織としてのSWMや女性音楽家の活動の可視化に資した。そして、そのように彼を動かした原動力はSWMの女性たちにあった。コベットはその内面的男性性から察せられるように、フェミニストではなかったが、アマチュアとして、比較的偏見にとらわれずに女性の才能や力を受け止めることができたのではないか。男性中心の社会(音楽界)において、女性の相互協力を目的とする組織の設立は、個々の女性の発展のための重要な一歩である。だが、巨大な男性組織ともいえる社会において、女性組織自体が周縁化されないためには、組織が開かれ、発信の場を持たねばならないだろう。そのために一方で男性中心の社会に根を下ろす男性的な男性との協力はきわめて重要であったといえよう。

SWMとコベットとのさまざまな関わりはアマチュアや女性音楽家にとって有益であっただけではない。アマチュア、女性及び女性性は、プロ、男性及び男性性に劣る一連の結びつきとしての連想を固定化しつつあったが、SWMとコベットとの関わりは、そうした連想を撹乱し、音楽界の視野を拡大し、女性音楽家、アマチュア、一般音楽愛好家のみならず、音楽界全体に利する方向へと向かったといえよう。


水越 美和(準会員)

発表1「ポリーヌ・ヴィアルド-ガルシアの演奏活動にみる歌唱の特徴について」

発表2「ジョルジュ・サンド著「イタリア座とポリーヌ・ガルシア嬢」にみる、ポリーヌ・ヴィアルド-ガルシアの歌手像について」(2015年4月19日発表)

ポリーヌ・ヴィアルド-ガルシア Pauline Viardot-García(1821パリ生-1910パリ没、以下ポリーヌと表記)は、スペイン出身の声楽一家ガルシア家の一員で、19世紀を代表するオペラ歌手のひとりである。本発表では、発表者がこれまでに行ってきたポリーヌ研究の中間報告として、「発表1」および「発表2」の2つのテーマに分けてポリーヌの歌手としての特徴について論じた。

 発表1 ポリーヌ・ヴィアルド-ガルシアの演奏活動にみる歌唱の特徴について

本発表では、以下の2つの主要な業績を通して形成されたポリーヌの歌唱の特徴について、楽譜の分析および資料の調査を通して検討した。

1.  1849年 マイヤーベーアGiacomo Meyerbeer(1791-1864)《預言者Le Prophète》初演において、女声主役フィデスFidèsを歌う

2.  1859年 グルックChristoph Willibald Gluck (1714-87) 《オルフェオとエウリディーチェOrfeo ed Euridice》のベルリオーズHector Berlioz (1803-69)編曲版《オルフェオOrphée》において、編曲にも関わり、初演でオルフェオを歌う

1. マイヤーベーア《預言者》フィデス役におけるポリーヌの歌唱の特徴

預言者ジャンの母フィデス役を演じたポリーヌは、「崇高なる悲しみの母」と称賛され、オペラ歌手として不動の地位を得たのだが、年老いた母親という役柄で女声低声パートに主役が与えられてこれほど成功したオペラはこれまでになく、ポリーヌの活躍により近代のメゾ・ソプラノの原型が確立されたと評されている。この作品の成立過程をたどると、配役の問題、特にフィデス役を巡って、最初の台本が完成してから初演まで10年もの歳月が費やされたことがわかる。資料の調査からは、マイヤーベーアは《預言者》に着手した当初からフィデス役に重要な役目を与えようと考えていたが、1839年にオペラ・デビューしたばかりのポリーヌの歌声を聴いてその考えはさらに強まり、早期からポリーヌにフィデス役を与えようと決意していたことが明らかになった。フィデス役の形成期(1841年頃)における、フィデス役に求められる歌唱の特徴としては、(1) 低音域の旋律の重みに耐えられる、よく支えられた低声 (2) 力強い声よりも優しさと温かさ、豊かな響きを持つ声 (3) 宗教的情熱を帯びた甘美で柔和な性格、の3点が挙げられる。さらにその後のスコア完成期(1848年)ではポリーヌの意見が採り入れられ、第5幕にはアリアを含めて200小節を越える長大な独唱の場面が配された。ここにおいて(4) 広い音域、(5) 技巧的なパッセージといった、上記とは別の特徴が加えられる。これによって壮大さ、華やかさも併せ持つこととなったフィデス役の歌唱は、この作品を成功に導いた要因のひとつとなったと考えられる。

2.  ベルリオーズ編曲版グルック《オルフェオ》オルフェオ役におけるポリーヌの歌唱の特徴

本発表では、作品の成立過程、楽曲構成について概観したうえで、第1幕最終場のオルフェオのアリア“アムールよ、私の魂に返しておくれAmour, viens rendre à mon âme ”および終結部のカデンツァに焦点を当てて、オルフェオ役の歌唱の特徴について検討した。アリアの構造自体はグルックの原曲からの変更はないが、ポリーヌの要求に従ってオーケストレーションが変更され、声と楽器が分離することなく互いに絡み合う、立体的で色彩豊かな構成となっていることが明らかになった。アリア終結部でポリーヌによって歌われたカデンツァの特徴としては、 (1) 13小節にわたって書かれ、オペラ全体の中で最も大規模なカデンツァとして際立っている (2) ベルリオーズ、サン=サーンス、ポリーヌ三者の協働によって作られた (3) 第1幕ロマンツァの旋律と歌詞が引用され、劇の内容との結びつきが強められている (4) 音域が2オクターヴ半と広く、技巧的なパッセージによる装飾が加えられている、といった点が挙げられる。これらの特徴はポリーヌの劇的表現力および高度な歌唱技術と結びついたものであると考えられる。こうしてオルフェオ役はポリーヌの関与によって男声から女声のための歌唱へ、また伝統的な歌唱技術と近代的な劇的表現の両方が等しく尊重された歌唱へと生まれ変わったといえよう。

以上1および2の検討結果からは、ポリーヌの2つの主要な歌手活動を通して形成された歌唱の特徴として、(1)温かみのある豊かな響きを持ったコントラルトの低音(2)きわめて広い音域にわたる華麗な装飾技術(3)演技も含めての劇的表現力の3点が認められた。

 

発表2 ジョルジュ・サンド著「イタリア座とポリーヌ・ガルシア嬢」にみる、ポリーヌ・ヴィアルド-ガルシアの歌手像について

 ポリーヌと交流のあった芸術家のひとり、女性作家ジョルジュ・サンドGeorge Sand(1804-1876, 以下サンドと表記)は、オペラ・デビューした直後のポリーヌと知り合って間もない1840年はじめに『両世界評論 Revue des deux mondes 』第21巻にて「イタリア座とポリーヌ・ガルシア嬢 Le Théatre-Italien et Mlle Pauline Garcia 」を発表する。本発表では、この論文におけるサンドの主張を整理したうえで、サンドがポリーヌの中に見出した理想の歌手像の特徴について検討した。サンドは、この論文の前半部分では火災に見舞われ移転を余儀なくされたイタリア座の状況をはじめ当時のパリの音楽事情について説明したうえで、フランスの音楽はまだ発展途上にあると述べ、外国の音楽から学ぶことの重要性を訴えている。さらに、政府によって示されたイタリア座の移転と補助金の廃止を非難し、オペラは単に上流階級が独占する娯楽ではなく、すべての人々の精神生活に恩恵をもたらす、高尚で洗練された理想の芸術であると主張している。続く後半部分では、存続の危機に直面するイタリア座に新星のごとく登場したポリーヌの資質について、サンドが理想とする歌手の条件と共に具体例を挙げながら次々と論を展開している。ここで論じられた理想の歌手としてのポリーヌの特徴として、(1)高い知性と音楽の能力、これによって裏づけられた独創性(2)強く気高い精神、寛大で誠実な人格(3)表面的な華やかさよりも、以上の結果から生じる内面的な美しさ、の3点が挙げられる。持論を展開する中で、サンドにとって表面的な美しさ、華々しさはあまり重要でなく、より内面的で高尚なもの、「魂から発し魂に届く」声を求めていること、さらには理想の歌手の活躍によって理想の聴衆も育っていくことを期待していることが明らかになった。

 

〈主要参考文献〉

水越美和

2013    「グルック作曲《オルフェオとエウリディーチェ》のベルリオーズ編曲版におけるポリーヌ・ヴィアルド‐ガルシアの関与―第1幕のアリア “Amour, viens rendre à mon âme ”および終結部のカデンツァを中心に―」『お茶の水女子大学大学院 人間文化創成科学論叢』15: 143-151.

2014    「マイヤーベーア作曲《預言者》成立過程初期における考察―ポリーヌ・ヴィアルド-ガルシアによるフィデス役の形成―」『お茶の水女子大学 人文科学研究』10:145-154.

2015   「ジョルジュ・サンド著「イタリア座とポリーヌ・ガルシア嬢」にみる、ポリーヌ・ヴィアルド-ガルシアの歌手像について」『お茶の水音楽論集』17: 1-12.

SAND, George

1840     “Le Théatre-Italien et Mlle Pauline Garcia”, Revue des deux mondes, 21: 580-590.


湯浅 玲子(準会員)
   「パデレフスキの自伝を通して見る19世紀末の音楽界
~パデレフスキの女性観を中心に~」(2016年10月23日発表)

2016年に出版した訳書「闘うピアニスト パデレフスキ自伝」(イグナツィ・ヤン・パデレフスキ、メアリー・ロートン共著、湯浅玲子訳、上下巻 株式会社ハンナ)を、19世紀末の音楽界という視点から紹介し、数々のエピソードから読み取れるパデレフスキの女性観に触れた。
 
Ⅰ 本の概要
 翻訳、出版に至った経緯、本の構成、未出版となっている続編の原書について。

 Ⅱ パデレフスキをめぐる人々
家族・・パデレフスキが生まれた家は、隣家と数キロ離れた集落から孤立した場所で、近所の人と会うことすらめったにないような環境だった。生後間もなく母親を亡くし、父に母性を求めて育った。「父は父であり母であった」と回想している。12才でワルシャワ音楽院に入学するまで、唯一の遊び相手は姉だった。パデレフスキ家に時折訪れる村人たちもすべて男性で、しかも老人であった。結婚後も、翌年に妻を亡くしてしまい、母親と妻、という一番身近な存在の女性を相次いで失ってしまった。青年期まで女性との関りをほとんど築けなかったことは、その後のパデレフスキの女性観を考える際、考慮すべき要素である。

女性音楽家・・ウィーンでピアノを師事したレシェティツキの夫人でピアニスト、エシポフ夫人は、パデレフスキのピアノ協奏曲や《メヌエット》の初演も行った。エシポフ夫人の演奏について、パデレフスキは、詩的な小品の演奏には長けていたが力強さに欠けた、としている。また、クララ・シューマンについては、個人的に会ったことはないが互いにコンサートを聴いていた。クララの弾くシューマンの演奏が、その当時の「伝統」となっていたために、パデレフスキが「楽譜通り」にシューマンを弾いた際に、クララの演奏と違うことで受け入れられなかったことに不満を述べている。クララの演奏には力強さがない、と評価している。エシポフ夫人と同様で、この当時、一般的に女性ピアニストが受けていた「力強さに欠ける」という評価に通じるものである。

女性たち・・パデレフスキと面識のあった女性たち、ヴィクトリア女王やポーランドの人気女優モデュスカ、ブエノスアイレスの上流階級の夫人、ド・カステスたちは、パデレフスキの音楽活動に協力した。彼女たちに対して、自伝のなかでは彼の感謝と敬意の念が読み取れる。

 女性に関しては、肉体的な男女差に触れることはあっても、蔑視するような言動は自伝からは読み取れなかった。むしろ幼少時に、女性を含め、他者との人間関係が築けなかった環境にいたことをコンプレックスと思っているような発言もある。また、裏切りや嫌がらせ、といった苦い思い出の数々は、もっぱら男性が対象となっている。はじめから女性と同じ土俵に立っていなかったという可能性もある。

 アメリカでレディーファーストの習慣を目の当たりにしたパデレフスキは、その習慣が素晴らしいとしながらも、現在の世の中は、平等という名のもとに、女性が男性の仕事を奪い、なおかつこれまでの女性としての特権を要求しているところに不平等さを感じていると語っている。そしてそうした状況がトラブルの原因だと考えている。

 パデレフスキは、男性と女性では男性の方が有利であると語っている。例として女優の容姿を挙げ、男優であれば、年老いても受け入れられるが、女優は容姿がすべてであるとしている。イギリスは例外と考えていたようだ。

Ⅲ 19世紀末の音楽界
1)  コンサート 
 パデレフスキの回想によると、当時は公のコンサートよりも、圧倒的に私邸演奏会(プライベートなコンサート)の依頼が多く、ロンドンでは数えきれないほどのオファーが来た。私邸演奏会が収入のメインになっている音楽家も少なくなかった。しかし、私邸演奏会は演奏中のおしゃべりも多く、目上の人が部屋に入ってくると、演奏を中断して立ち上がって礼をしなければならない、という習慣があり、これを嫌ったパデレフスキは、改革に乗り出すべく様々な行動に出た。 また、当時のコンサートはアンコールだけで1時間あったり、終演が夜1時をまわるなど、長時間の拘束があったことも回想されている。
2)  コンサートの舞台裏
 パデレフスキは、ある程度の名声を得るまで、自分の思うような興行はできなかった。現地に到着後、リハーサルなしにすぐに本番があったり、2週間で6曲の協奏曲を弾いたり、とハードなスケジュールが組まれていた。アーティストを自分の所有物のように扱い、無理なスケジュールを組むマネージャーがいたことを、自伝で回想している。
3)  演奏旅行
 専属の調律師、料理人、医者も同行した大掛かりな演奏旅行が行われていたが、長期間にわたる移動は相当ハードなものだった。
4)  批評
 コンサートの翌日にはすぐに掲載される新聞の批評は、当時、大きな影響力を持っていた。パデレフスキもその内容に一喜一憂していたひとりだったが、私的な感情が含まれている批評を読んだときに、自分も書いてみたいという気持ちになり、1年間批評活動をした。

Ⅳ パデレフスキが感じた「国民性」
 当時、アフリカとアジアを除く全世界をまわったパデレフスキは、行く先々の国で感じた各国の「国民性」を語っている。 悪徳マネージャーの依頼を断ったがために、嫌がらせを受けることになったベルリンについては、二度と訪問しないというくらいの嫌悪感を抱き、自分の「心の都」とするウィーンの対極において、なにかと比較の対象にしている。
 また、華々しいデビューを飾ったパリは、多くの芸術家と知り合った街でもあり、新鮮な印象を持つ一方、パリの私邸演奏会では、騒々しい聴衆を「最も無作法だ」としている。
「法と秩序を守る」イギリスは、安心感を覚える国であるとしている。「第2の故郷」と慕うアメリカは、チャリティ精神の素晴らしい国と讃え、寄付によって文化が栄えたといっても過言ではない、と、寄付によって設立された図書館や美術館、そして音楽院やオーケストラの実例を挙げている。
 また、パデレフスキがポーランド人として、これらの国で受けた様々な屈辱的な経験も回想している。個人的には親切に接していても、国の話となると、態度が変わる人もいた。

Ⅴ パデレフスキの自伝が遺したもの
 この自伝は、あるひとりのピアニスト、作曲家が遺した歴史的証言である。公の記録や資料に残されていない音楽界の様子、例えば、私邸演奏会やコンサートの舞台裏、その時々の音楽家たちの様子や交流が詳述されている。残された資料を通してしか、過去を位置づけることのできない現代の私たちにとっては、貴重な文献である。



渡邊 佐恵子(会員)
 「東京都江戸川区の民俗芸能葛西おしゃらくについて」(201年月日発表)

 本研究では、東京都と千葉県の境を流れる江戸川の下流域である、東京都江戸川区葛西、及び、千葉県浦安市の両地区で伝承されてきた民俗芸能「おしゃらく」のうち、葛西地区で現在も伝承されている「葛西おしゃらく」について取り上げた。この「葛西おしゃらく」について、現在の保存会の活動を調査することに加え、「葛西おしゃらく」で演奏されている主な曲目を採譜し、その曲の分析を行うことで、この芸能の民俗面、及び音楽的内容を考察した。

まず、保存会の稽古観察から明らかになったのは、様々な方法で、おしゃらくの下座音楽と踊りが伝承されてきたということである。

 保存会の活動は、藤本氏を中心に、保存会設立時の会員からの伝承を守っていく一方で、保存会の月に1回の稽古以外の日々の稽古では、葛西の女性たちが通常の稽古の中心となっているということが分かった。

三味線の場合には、藤本氏はまず、保存会設立時の会員から得たものを葛西に在住していた自身の三味線の弟子に口頭伝承し、それとともに楽譜という形で書き記した。そして、その弟子から、それまでおしゃらくを知らなかった地元葛西の女性に伝承され、現在の日々の稽古では、その女性を中心に、藤本氏が書き記した楽譜も用いて三味線の稽古が行われている。

 下座の唄や太鼓に関しては、藤本氏が保存会設立時の会員たちから伝承した技術を、できるだけ、現在の会員たちに直接口頭伝承で伝えている。そして、稽古の際には、必ずしも口頭伝承にこだわらず、カセットテープという第二次口頭性の道具も用いて、柔軟に稽古を行っていることも明らかになった。藤本氏からの稽古は、もちろん毎日受けられるわけではないので、カセットテープに録音し、それを元に、日々の練習を個人個人でしているのである。いわば、第一次口頭性と第二次口頭性[1]の伝承方法を同時に行っているのである。

 踊りは、保存会設立時に踊りを担当していた会員から直接指導を受けた会員が、現在は保存会の踊り手のリーダーとなり、保存会に入会して初めておしゃらくを知った会員への稽古をしている。

このように、おしゃらくの伝承は、総じて見ると、

①口頭伝承
②第二次口頭性
③藤本氏は月1回の稽古で指導し、普段は、地元の女性がリーダーとなり、三味線と踊りは伝承されている伝承構造

という3種類の方法を用いて成り立っていることが分かった。
 
 こうした安定した指導体制にあるからこそ、葛西おしゃらく保存会は、入会まで葛西おしゃらくを知らなかった会員も含め、設立時以来、着実に活動をしていったのではないかと考えられる。

また、おしゃらくの中で唯一地元葛西を唄った曲である『新川地曳き』の三味線の、構造的な見地からの分析を中心に、おしゃらくの音楽的構造を明らかにした。その際、約5-15小節で反復されている6つのフレーズと、そのフレーズの単位より短い約1-3小節の旋律を14の基礎モティーフに分けて分析を行った。そして、その基礎モティーフを分析により、類似、準類似、対比関係に分けて進めていった。明らかになったのは、以下の4点である。

①14の基礎モティーフとその変形のパッチワークで全体が形成されていることが分かった。 ②その基礎モティーフが集まってできた6つのフレーズがそれぞれ何回も反復されていて、このフレーズがこの曲の大部分を占めていることから、反復がこの曲で重要な技法だということも分かった。
 ③しかし同時に、曲は単純な反復に終始しているわけではなく、曲が進むにつれ、各基礎モティーフの中でも変形が行われていることも明らかになった。
 ④各フレーズの構造も、一見複雑なものもあるが、その内部には、準類似関係の基礎モティーフも含まれているので、その点を考慮すれば、比較的単純な構造に整理できる。

 この『新川地曳き』の三味線の旋律分析からは、反復が多用されているという点と、非常にまとまった構造であるという点が明らかになった。ただ、今回は、『新川地曳き』1曲の分析であったため、今後は、他のおしゃらくの曲も採譜して、分析を行い、この芸能についての理解を深めたいと思う。

[1] ワルター・オングWalter Ongの用語。口頭性が記されないまま、空間的にも時間的にも離れた人間に働きかけることを指す。(徳丸:1991:74)




外部講師による発表


岡田 真紀(ノンフィクションライター)
 「民族音楽から『女性の生き方』にいたる道」(2012年6月17日発表)

民族音楽との出会い

私が東京芸術大学楽理科に入学したのは1970年、ちょうど70年安保闘争の年でした。芸術家の卵たちが集う芸大も社会的な動きと無縁ではなく、学生自治会の呼びかけで音楽学部・美術学部を問わず大勢でデモに行き、声楽科の学生の朗々たるテノールに導かれて「インターナショナル」を歌ったことが思い出されます。60年代は、アメリカでは黒人差別反対の公民権運動、ベトナム反戦運動、フランスでは1968年の5月革命、中国では文化大革命、日本でも沖縄返還運動と、世界中で変革へのエネルギーが高まっていた時期で、学生たちが社会に関心を持つことは自然なことでした。

 私は、女でも経済的に自立できることを願った母親に「ピアノの先生になりなさい」と言われて育ち、幼い頃からピアノを習い、楽理科に進みましたが、芸大で民族音楽学者、小泉文夫先生との出会いによって、音楽への考え方ががらりと変わりました。初めて聴いたインド音楽、朝鮮半島の音楽など、民族音楽自体魅力に富んだものでしたが、騎馬民族と農耕民族のリズム感の相違とか、モンゴルの自由リズムのオルティンドーと日本の馬子歌の共通性とか、民族の文化の特徴を大きくつかんで、伝播の過程や文化の他の側面との関連などを話され、普遍性と個別性の両面から世界の音楽を見ることに知的な興奮を覚えたのでした。

 アメリカでの黒人研究

芸大の大学院を修了後、アメリカに渡りました。当時の日本は、男女雇用機会均等法が施行される10年ほど前で女性は就職試験すら受けられない会社が多数あり、私は社会における女性差別をひしひしと感じていました。そこでアメリカ社会でもっとも差別を受けてきた黒人女性について研究しました。差別と貧困の中にあって、男性の経済力に頼ることもできず、黒人女性は奴隷時代以来常に働き続けてきました。黒人の家族に住まわせていただき、シングルマザーであっても、両親やおじ・おば、きょうだいの助けを借りてたくましく子育てをする力や、男性に頼らない自立した生き方、母子家庭の子どもを差別しない包容力のある社会のあり方など、黒人の営みの温かさを実感する体験でした(『黒人の家族と暮らす』草思社、1986)。

 家族を持って

 帰国後まもなく小泉先生が56歳の若さで亡くなられ、先生の著作を丹念に読み、交友があった皆さんにお話を聞くという小泉文夫フィールドワークを行い伝記を書き上げました(『世界を聴いた男―小泉文夫と民族音楽』平凡社、1995)。先生はソ連(現在のロシア)、中国、朝鮮半島の音楽家、つまりはるか昔、シルクロードの道で交流のあった人々を同じ舞台の上にあげて、かつての人のつながりを彷彿とさせるシルクロードの音楽会を実現されました。当時はまだ東西冷戦の最中で各国が政治的に敵対しており、実現までには大変な苦労があったそうです。多くのフィールドワークから、音楽とは人をつなぐものであるということを確信されていたのでした。先生の「自分の価値観でほかの文化を判断してはならない」という教えは私の人生の指針となっています。

一方、家庭ももち、3人の子どもを育てましたが、「子ども」というのは自分とはまったく違った存在であることを確認していく体験でした。自分の価値観の狭さを子どもに突きつけられると同時に、日本という消費社会・教育志向社会において「親であること」の難しさを痛感しました。自分自身の学びとするためにも、子どもの「問題」から自分や社会の「問題」へと視野を広げ、価値観を拡げ、子どもとの関係を修復なさった方々からお話を伺って本にまとめました(『不登校・非行・ひきこもりになったわが子―悩みを乗り越えた母親たちの声―』学苑社、2007)。

 また、ベトナムで読み継がれてきた童話で、長く他国の侵略や内戦を経験してきたベトナム人だからこそ、武器を捨ててみんなで食べ物を分かち合って平和に暮らそうと呼びかけるお話を英語版から翻訳しました(『コオロギ少年大ぼうけん』新科学出版社、2007)。

 改めて社会と向き合う

 現在は、原発事故をテーマに映画を撮った女性監督や民法で男女別姓が認められるよう活動している方々といった素敵な生き方をしている女性を取材して女性向けの新聞に記事を書いています。政治的な内容を含みますが、私は政治は生活そのものだと思っています。地震国日本にこれほど原子力発電所があり、今もなお福島はむろんのこと東京の人間でさえ子どもの放射能被害に怯えなくてはならないのは原発を推進してきた国の政策ゆえですし、子どもを預ける保育園が見つからなくて、女性が働くことをあきらめなくてはならないのも保育園を作ろうとしない行政の方針からです。今、憲法を変えようという動きが強くなっていますが、音楽家も美術家も「国策」に対して自由な立場をとれなくなり、戦争に協力させられてきたのは、つい70年ほど前のことです。平和を希求してピカソが『ゲルニカ』を描き、カザルスが『鳥の歌』を演奏したように、芸術家が戦争から超然としているわけではありません。私は芸術家ではありませんが、音楽を愛しつつ、いのちを大切にする社会になるよう、これからも一市民として仕事や活動をしていきたいと思っています。(了)