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コンサート報告

女性と音楽研究フォーラム・コンサートinパリ 玉川裕子

 2003年3月28日、女性と音楽研究フォーラム初の海外におけるコンサートが、パリの日本文化会館において開催された。プログラムは、日本の女性作曲家5人とタイユフェールの作品からそれぞれ数曲ずつが選ばれ、花岡千春(Pf.)、奈良ゆみ(Sp.)、小林美恵(Vl.)の各氏によって演奏された。以下、フォーラムの会員としてはただ一人、聴くことだけを目的に参加した者として、おもに当日の演奏についての感想を述べさせていただく。

「知られざる曲」と演奏―傑出した花岡千春氏のピアノ終演後の演奏者たち(写真提供:有馬絵里子氏)

 何よりも特筆すべきは、ソロおよびアンサンブル・ピアニストとして、全曲にわたって出演した花岡千春氏の演奏である。彼は、曲の様式や構造その他をすみずみまで把握し尽くしたうえで、音の生成する現場では即興的要素も加えつつ、それぞれの曲の持ち味を、繊細かつ多彩な音色で表現し尽くした。私は常々、「知られざる」曲を演奏するときほど、演奏者の役割が重要になってくると思っている。もし、ある程度クラシック音楽に興味のある人がモーツァルトやベートーヴェンを聴いてつまらないと感じた時、多くの人は、曲ではなく、演奏者が悪いと考えるだろう。しかし、「知られざる」曲――とりわけ「知られざる」作曲家の――を聴いて退屈を覚えた時、その原因は曲にあると考えることが多い。それはしばしば、「だからこの曲が『知られざる』曲であるのは当然だ」という結論にまで導かれる。

当夜、花岡氏は、この危険性を見事に回避していた。たとえば、松島彜の2曲のピアノ曲。簡素なたたずまいのこれらの曲は、普通に演奏すれば、「面白みのない曲」と思われかねない。しかし、花岡氏は、簡素な楽譜から、曲のエッセンスとでもいうべきものを引き出し、気品に満ちた珠玉の小品を聴き手の耳に届けた。また、歌曲の伴奏においては、仮に歌がなく、ピアノパートのみ聴いていたとしても、いま何が問題になっているかが如実に伝わってくるような、繊細でニュアンス豊かな自在な演奏を聴かせた。氏の演奏に聴きいっていると、私はいつも耳が澄んでいくような気がする。

歌のメッセージ性―奈良ゆみ氏のドラマティックな歌唱

 奈良ゆみ氏の声は、非常にドラマティックで、ストレートである。今回のコンサートでもその本領が遺憾なく発揮された。当夜もっとも拍手を浴びたのは――米のイラク攻撃が始まって一週間ほどの時期だったせいもあると思われるが――、日露戦争時に与謝野晶子によって詠まれた反戦詩をテキストとした吉田隆子作曲の《君死にたもうことなかれ》である。ここでは、奈良氏の重みのある声質が、曲の求める響きと一致し、与謝野晶子-吉田隆子-奈良ゆみとつながる三者の反戦に対する思いが激しく表出された。有節歌曲形式で5番まである歌詞は長すぎるので一部カットするという案も事前に出たが、歌詞の内容を大切にしたいという演奏者の意向で全曲歌われることになったのは、反戦意思の明確な表明と理解され、それはそれで重要なことだったと思う。

だが正直なところ、同じ旋律が何度も続くと、簡素なだけに、さすがに退屈なところもあった。歌詞の内容に応じて、歌い方にもうひと工夫あったならばと思われなくもなかった。それは、金井喜久子の《東西東西》や吉田隆子の《ポンチポンチの皿回し》などのコミカルななかに社会風刺をこめた曲でより強く感じたことであった。曲調の変化にもう少し鋭敏に反応して、軽やかさやひねりや陰影などのニュアンスも多彩に表現されていたならば――たとえばピアノパートに聴かれたように、あるいは、奈良氏自身が渡鏡子の2曲において示していたように――、もっと奥行きのあるものになったのではないだろうか。 

作品のレパートリー化―小林美恵氏の説得力のあるヴァイオリン演奏

小林美恵氏のヴァイオリンは、タイユフェールでは、最初こそ、多少不安定なところがあったが、すぐに波にのり、ピアノと絡みあいながら、生き生きとした洒脱な音楽を響かせた。西洋古典音楽のスタイルで書かれた松島彜の《プレリュード》も、彼女のピアノ曲と同様、簡素なつくりだが、大変ていねいに演奏され、この曲のもつのびやかな息吹が伝わってきた。続く吉田隆子の《ヴァイオリン・ソナタ》は、当夜の白眉だった。小林氏は、この音はこうあるしかない、と思わせる説得力のある響きで一音一音を積み重ねていき、ピアノとともに、この曲のもつ立体的で彫りの深い構造を明確に表現し、充実した多層的な響きの世界を作りあげた。この曲が、多くのヴァイオリニストのスタンダードなレパートリーとなって、多様な切り口からさまざまに演奏されることを願わずにはいられない。 

異議申し立て―「女性作曲家」の作品はなぜあまり演奏されないのか?

「女性作曲家による作品」という共通項を除けば、さまざまなタイプの作品が並べられた当夜のプログラムは、「女性作曲家」という括りが、「男性作曲家」という括りが何の意味も持たないのと同様、作品そのものを理解する助けとはならないことを、明らかにしていたと思われる。実際に作品が演奏され、聴かれることによって初めて、個々の作品の意味や価値についての議論を始めることができるのだ。「女性作曲家の作品による」と銘打った場合、作品そのものの質は作品によって問われるべきであるにもかかわらず――その際、ジェンダーの要因が作品の質そのものに、どのように、どの程度関わってくるかについては、私には現時点では未解決の問題が多く、立場表明できない――、「女性」ということを根拠として、作品そのものを問われる場にそもそも到達することすら許されないことの多かったこれまでの認識枠組に対する異議申し立て、と私は理解している。当夜のコンサートは、ある作品が知られ、あるいは知られていないのは、その作品の質のせいばかりでなく、音楽の生産や受容の場に働いている(広い意味での)政治力学の結果でもあることを、さまざまな形で示していたといえるだろう。また、この力学ゆえにこれまで演奏される機会の少なかった作品を、ほんのわずかにすぎないとはいえ、すばらしい演奏で紹介することによって、音楽世界をより豊かなものとしていくために、ささやかながら貢献したといえるだろう。